憧れの存在
先日亡くなった古賀稔彦。
高校の柔道部の1学年下で、ともに畳の上で汗をかいた仲間だ。
と言っても、彼と私では比較にならない程、稔彦は柔道も人間的にも、身体も心も優っていた。
そんな彼が、1992年のバルセロナオリンピックでは大会10日前、同じ高校柔道部後輩の吉田秀彦との練習中に左ひざの靭帯損傷という大けがを負う。
試合前日までは立つことさえままならなかったが、痛み止めの注射を打ちながらも、恐ろしいほどの精神力で優勝することができた。
さぞ痛かっただろう。苦しかっただろう。
身体から発せられる、その痛みは「休め! 動くな!」という生命からの叫び。
しかし、稔彦はその身体からの悲鳴を「痛み止め」というクスリで抑え、氣力を振り絞り、立ち上がり、闘い、オリンピックという大舞台で勝利を掴んだ。
そんな彼が昨年、がんを患い腎臓を片方摘出する手術をし、一度は快方に向かったという。
それでも、完璧な治癒を目指し、複数の病院にかかり、各種の抗がん剤を打った。
みるみる体力が失われていき、がんは転移し、腹水が溜まり、症状が悪化していった。
痛みを抑えるためにモルヒネも投与しながら回復を目指すものの、自宅療養中、突然に死を迎えてしまった。
医者は、患者が亡くなるのは「負け」だ。一秒でも長く「生かす」のが我々の仕事だ。という意識があると、看護師の妹から聞いたことがある。
生死に係わる病気の場合、当然そのように考えざるを得ないかもしれない。
しかし、私には、患者の事を想っての意識ではなく、単なる医者のエゴのように思えてならない。
稔彦の主治医がそうだったかはわからない。彼自身が望んだ治療だったのかもしれない。
いざという時、ここぞという時。
短期的にクスリが必要で有効なのかもしれない。
しかし、長期間にわたり常用するものでは絶対にないと思っている。
CMを見れば、頭痛だ生理痛だ花粉症だと、症状を抑えるのが治ったことのように、症状がなくなるのがいい事のように映像が垂れ流され、無意識のうちに洗脳されていく。
症状があるのは、誰にしろ不快なものである。
感じなくなるのは嬉しい事のように思えるが、果たして本当にそうなのだろうか。
クスリが切れれば、症状を感じるようになる。
更にクスリに依存し、感じなくさせる。
だんだん効き目が薄くなり、強いクスリ、多量のクスリ、多種のクスリが欲しくなる。
これは、もはや薬物依存ではなかろうか?
確実に患者の生命を縮める行為なのではないのだろうか?
医者や製薬会社の本心はどこにあるのか?
病気や怪我を直すのは医者でもなければクスリでもない。
自分が持つ自然治癒力のみ。
最近は不思議と風邪クスリの宣伝はほとんど見なくなった。
それは、コロナはただの風邪ということを隠匿するためなのだろうか?
風邪にはワクチンが無い。いや、できない、もしくは、作っても意味がないらしい。
何故なら、常に変位をしているから。
年に何回も風邪をひいたことがある人も多いだろう。
マスクは本当に有効なのだろうか?
その検査は正しいのだろうか?
注射にどんな意味があるのだろうか?
少しでも疑問に思うのであれば、CMや報道を鵜呑みにするのではなく、自身で調べてみることも必要なのではないか。
もしかしたら、洗脳されているのかもしれない。
そんな気がしてならない。
しかし、実際に医療で助かった生命があることも確かだし、救急医療は必要だと思う。
ただ、マスコミで伝えられていることや、常識と言われていることをそのまま信じるのではなく、自分で判断し、選択をすることが大切なことだと強く思う。
古賀稔彦。
私はあなたのように、強くなりたかった。私の誇りであり憧れの存在だった。
ありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。